「昔」は田んぼにレンゲを植えていた。。。

「昔は田んぼにレンゲを咲かせて肥料にしていた」との解説が時々見られます。私自身、子供の頃はゴールデンウィークに父の里へ行き、一面レンゲの花の中、従姉妹達と白いレンゲを探し出して、誰の首飾りが一番白いかを競って遊んでいました。でもそれは戦後の一時期だけなんだそうです。以下は父からの聞き取り。

父が子供の頃、温暖な三重県の山里では二毛作が主流でした。稲刈が終わると小麦、大麦、裸麦、そしてアブラナを作りました。小麦は収穫後うどん屋に持っていくと、うどんと小麦粉に換えてくれました(村に蕎麦屋はありませんでした)。大麦は麦飯で自家消費、裸麦はそのまま煎って「こがし」というおやつにしました。アブラナは菜種を油屋に持っていくと、油と油かすに換えてくれました。その油かすと自家製人糞、そして金肥(=お金を出して購入する肥料)としてニシンかすを肥料として使い、レンゲには頼っていませんでした。

ニシンかすはそのままだと大きいので、臼でついて細かくします。その時に卵(=今で言う数の子)がでてくると米のとぎ汁につけておき、正月に限らずおかずにして食べました(だから父は毎年お節料理で数の子を買ってくるたびに「なんで昔はタダ同然だったのに、こんなに高いんや?」と憤慨します)。お正月に田作りや数の子を食べるのは、かつてこれらは肥料として農村で使われていたからなんですね。

苗代にする予定の土地だけは、菜っぱや麦を植えてしまうと苗作りができなくなるので、レンゲをまいていました。それで父の記憶だと春の田園風景というのは、黄色い菜の花畑のイメージの方が、レンゲのピンクより遙かに強いのです。

ところが高度経済成長期には農業だけではやっていけなくなり、兼業農家が増えました。作物も省力化のため米だけになり、冬は何も作らなくなりました。そうなると稲刈り後に種をまくだけで窒素肥料になるレンゲが楽でいいと、一面のレンゲ畑が出現するようになったのです。しかしそれも束の間で、化学肥料が普及するにつれてレンゲをまく手間も惜しまれ、レンゲ畑も消滅しました。

今の子供達にとっての田んぼは、連休頃の田植から収穫まではイネがあり、他の時期は完全に乾いた土地という、米生産工場のような区画でしょう。そして1960年生まれの私にとっての田んぼは、一面のレンゲ畑と、梅雨期の田植えと、たくさんの小魚たち(それが一夜にして農薬で浮いた光景を見てから、お米を食べれなくなってしまいました)。もし父が身近にいなかったら私も、それが昔のほんの一瞬のことだったなどと思うことなく「昔は日本人はレンゲを植えて、その窒素固定能を利用して肥料にしていた」と教えていたかもしれません。

水環境の仕事でも、たとえば「自然を再生しよう」といろいろ試みられていますが、再生したい自然がいつのどういう状態なのか、きちんと調べられることなく「再生」されたりしているのが現状だと思います。

「農業は忙しかったけど面白かったよ。尋常小学校から帰ったらまず麦踏みして、そして裏山に行って薪をとる。それが終わったら竹を切ってヒゴにして籠を作ってしかける。メジロホオジロがかかったら家に持って帰って、飼って鳴かせて遊んだ。俺はほんまは農業やりたかったんやけどな。」父は三男だったので、シベリアから叔父が復員してきたときに相続していた農地は全部譲って、サラリーマンになりました。

日本人を育んできた風土はいま、もしかしたらここ2000年で一番激しく変わりつつあります。その大きな要因が農の変化だと私は思っています。