みんなが健やかに生きていくために

「おいしくて安全な牛乳の選び方」や「本物の牛乳は日本人に合う」などの著作を残された、小寺とき様を偲ぶ会に行ってきました。祭壇の遺影を前にして、ようやく亡くなられたことを実感しました。
1980年代後半、東大・海洋研の学生だった私は、自転車で数分の小寺様のお宅に週2回うかがい、小寺様が主宰する青空農園の無農薬野菜を分けていただいていました。そのたびに教わったいろんなこと、特に「みんなの生活のあり方が環境のあり方である」が、今の私の水環境観につながっています。
小寺様は5人のお子様に給食ではなく、お弁当を持たせました。人工添加物や化学調味料、そして農薬漬けの野菜などを食べさせたくなかったからです。それで1万坪の田畑を同志と耕して無農薬無化学肥料で米や野菜を作り、有機栽培した大豆を使った味噌や醤油、納豆を業者に作ってもらい、その大豆カスや除草剤を使用していない土手の野草などで育てた牛の牛乳をホモジナイズしないで低温殺菌するなど、食生活の全てを変革されました。これらの商品は「みんなの醤油」「みんなの納豆」そして「みんなの牛乳」とネーミングされています。我が家が安心して食べているのも、これら「みんなの」食品です。
食生活以外にも、大家族の衣服を洗濯機を使わず石けんで手洗いされ、化繊の衣料は用いず、羊毛を自ら毛糸にし、それを草木染めにしてセーターを編んでいました。「こんないい石けんなのに、どうして広まらないのでしょうねぇ」「合成洗剤を流しておいて、安全な魚を食べたいなんて無理よね」
今なら当たり前と思う方が多いと思いますが、これらをすべて、彼女は1970年代から始めていたのです。漂白剤を使わない手洗いの服がどうしても真っ白にならないため、小学校の先生からは「お宅は何か特殊な宗教でも信じているのですか」と言われたそうです。
1990年代にはノンホモで低温殺菌の「みんなの牛乳」はそれなりに認知されるようになりましたが、彼女は一部の関心の高い家庭だけが本物の牛乳を飲めるのでは不十分と考え、給食に低温殺菌牛乳を取り入れるよう、お住まいのある中野区で運動を始めたりしていました。
先に「みんなの牛乳」の牛は野草を食べていると書きました。その野草が育つ利根川の土手に繁茂するカラシ菜が土手の管理上問題があるからと、当時の建設省は、確かすべての一級河川に除草剤をまくことにしました。これに対して小寺様は「カラシ菜は牛乳の生産者と消費者で手作業で必ず全部抜きます。なので牛の餌が育つ区域には除草剤をまかないでください」と依頼し、奇跡的に認めていただけました。以来、春のカラシ菜積みは酪農組合と消費者の恒例行事となっています。
農作業や家事を通じて生活を見つめる小寺様は、常に「みんなの」という普遍性を考えていたからだと思うのですが、とても科学的にいろんなことを発見されました。小寺様が見つけ出した、考え出したことは「こんなこと海外の文献で言ってませんか?」と言われて検索したら、その通りでした(もしくは小寺様が先を行ってました)。それが逆に、メーカーの利益を守らなければならない乳業界とは逆だったりしました。小寺様ほど、人の総合性のすばらしさを体現している人間はいないと思っていました。そして小寺様は「英語はドイツ語より苦手」と言いつつ、いつも最新の国際誌文献に目を通す努力を怠りませんでした。
昨年出版された「本物の牛乳は日本人に合う」は病院で抗ガン剤治療を受けながら、すべてを記憶している文献を引用しつつ、病院のベッドで初稿を書き上げたものです。闘病は3年に及びましたが、本当に苦しい治療だったはずなのに、小寺様は決して弱音を言わず、お見舞いに行ったときには「抗ガン剤ってつらいって聞いてたけど、私は鈍感なのか、全然大丈夫。ちゃんと食べれるし」と笑っていました。そんなハズないのに。

就職して中野に通わなくなって20年近くになります。今日の会で在りし日の小寺さんのお話をうかがいながら、学生だった頃のあれこれを思い出していました。
小寺さんが学生だった私に伝えてくれたこと、それを私は水環境の教育・研究を通じて、次世代にちゃんと伝えていかねば。

おいしくて安全な牛乳のえらび方 (岩波ブックレット)

おいしくて安全な牛乳のえらび方 (岩波ブックレット)