専門家が科学に基づいて発言する内容は合理的か?

日本地理学会のシンポジウム「環境市民活動は何を目指すのか?環境共生社会における役割と目標について考える」でコメンテーターを務めました。
コメンテーターなので、事前には講演者の要旨や著書を読むにとどめ、講演をうかがいながらコメントをまとめました。タイトルは「環境共生社会における理工系専門家の役割と目標について考える」とし、ポイントを3つにまとめました。
1) 専門家が科学に基づいて発言する内容は合理的か?
2) 市民に関係するのに市民が関心をもたない問題は環境問題ではないのか?
3) 人為的な影響を減らせば望ましい状況に近づくのか(目標としてよいのか)?
ここでは1)について記します。
講演者がアサザプロジェクトを紹介していたので、国土交通省が○○億円を投じてアサザを植栽した事業に対する、某市民団体と地元研究者との議論を伝えた2002年の新聞記事を紹介しました。
地元研究者については、「霞ヶ浦ではモなどの沈水植物が姿を消しており、最もやらなければならないのは沈水植物の復元であることを強調。湖岸修復事業(=アサザの植栽)を「非常に危険な事業」と批判した。」とありました。これに対して、植栽事業を展開した市民団体側の研究者(=もともとの専門は陸上植物の保全)の発言として、
「浮葉植物で酸素不足になるのは誤解。空気を取り入れ、根に送るシステムがある。」とアサザを擁護した、とありました。
アサザという植物だけを見ていると、この研究者の発言は必ずしも非合理的ではありません。レンコンと同じで、自分を守るだけの酸素は根に送っています。しかしそれは、他の動植物にも酸素を供給するものではありません。浮葉植物に覆われた水面下が非常に嫌気的になるのは、現場で測定すれば分かります。某研究所で、開花したアサザの下で多くの魚が泳いでいる図が飾られていましたが、現実にああなっているとは思えません。アサザの開花期に水質を調査したら、硝酸ではなくアンモニアが検出されました。嫌気的環境だからと考えられます。
ということで、下記をコメントしました。
・専門家はそれぞれの専門しか専門ではない
・「環境」の専門家は存在しない
・専門が違えばとんでもない勘違いということもある
・最適な専門家が一定期間、現場を観察できるとは限らない

最後のポイントが重要で、だから「市民」ではなく「住民」が運動の主体である必要があると考えています。シンポジウムではこの問題も議論されましたが、時間切れという感じでした。次回以降の進展に期待したいと思います。