豊岡市のコウノトリ

9日に行われた「手賀沼流域フォーラム」で、佐竹節夫先生のご講演「コウノトリと人が共生するまちづくり」を拝聴しました。
佐竹先生はこのフォーラムでは放鳥前にも講演されていて、今回が2度目。また山階鳥類研究所があるので、会場となった我孫子には何度も来ているとのことでした。以下、おもしろいと思った内容を中心にまとめました。

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生後1ヶ月のコウノトリの雛は、1日に1kg以上、ドジョウやら蛇やら、あらゆる動物を食べます。こんな大食漢の鳥がいても魚やら蛇やらが絶滅しなかったのは、食べられる量より増える量が多いからで、つまりそれだけの生産がかつてはあったということです。その生産の場は水路とフラットだった田んぼ。コウノトリが餌を食べられる最大水深は15cmなので、日本では田んぼが存在したことで、コウノトリが共生できたのでした。
かつては日本全国にいて、特に江戸は、都市を支える農業がしっかりしていたので、多くのコウノトリがいたそうです。しかし明治時代から減少が始まり、明治41年にトキと同時に保護鳥になりました。
その頃豊岡にはまだコウノトリがいて、営巣地近くに茶店を設けてコウノトリ見物で儲ける人もいました。行政は明治38年から保護を始めました。営巣地での見学について「さわるな、夜は来るな」など書いた札を立て、巣と立て札が写った写真を絵はがきとして販売するなど、商売上手でした。
しかし農業改革を機に進んだ乾田化と農薬・化学肥料使用により、豊岡のコウノトリは急速に数を減らし、10数羽になったときには、汚染された環境では死んでしまうとケージで保護されました。しかし彼らは繁殖することなく、豊岡のコウノトリは絶滅しました。その後、ロシアから入手した雛が繁殖し、放鳥への道筋がつきました。
放鳥しても餌がなければ生きてはいけません。豊岡市では農薬を減らすために合鴨を導入したところ、田んぼの中に生き物が入るという光景が、人々の心に変化をもたらしました。合鴨は子供達が放すのですが、自分たちが放したカモが心配な子供達は、田んぼの持ち主である農家のおっちゃんにも関心を向けるようになり、それが農家の自信につながりました。農薬を使わない、冬にも水をいれるなどして田んぼの生物を増やしましたが、それだけでは大食漢のコウノトリには足りません。放棄された田を湿地化するなど、今も様々な試みが行われています。
餌場とした湿地に外来種が進入してしまい、駆除をするのに手間がかかるのが今後の課題です。外来種だけでなく、ミズアオイという在来の浮葉植物におおわれて、魚が住める状況ではなくなることもあります。農業人口が減る中、どうやって田んぼを維持するかも大きな課題です。
農家にとってコウノトリは田植え後の稲を踏んづける害鳥です。どうやって合意形成したのでしょう。市では補償を求める農民対策として、様々な準備をしていました。そして実際、「あんな害鳥、まさか屋外に放すんじゃないだろうな」とやってきた農家の方が、話しているうちに、「昔はうちの裏山にも2羽くらいいつもいて。。。」と、だんだんコウノトリの自慢話になり、補償のことなど言わないで帰ってしまいました。豊岡市自身、税金の無駄遣いと批判されることがあっても、明治時代から一貫してコウノトリ保全を行政が貫いてきました。そのような歴史が豊岡市が唯一誇れることで、トキを対象にしていたら失敗していたでしょう。市民活動だけではこういうことは無理で、行政が主体となり、「これで行こう」と決めたからには、責任を持ってやる。
現在、豊岡市ではコウノトリによる経済効果は年間10億円と見積もられています。その大部分は観光関係で、無農薬米などの生産による効果は微々たるものです。
コウノトリとトキは、餌はほとんど同じですが、どちらかというとトキは山と水田の組み合わせ、コウノトリは川・河口・湖と田んぼの組み合わせという感じで、住み場所場所が若干異なるようです。そしてコウノトリの営巣に良いのはアカマツの大木ですが、今ではアカマツの大木は少ないので、代替の構造物を造る必要があります。
豊岡市で保護区以外を自由に飛び回るコウノトリは、県外にも飛んでいきます。これまで岩手から福岡までの、26の府県でコウノトリが確認されています。なぜか関東の都県ではゼロです。