非理系的な書き方

入院中の暇つぶしに、「真相開封 昭和・平成アンタッチャブル事件史」(文春文庫)を読んでました。「東日本大震災は予知できていた」という項目があったからです。期待していた私の元職場だった産総研が出していたデータなどではなく、木村政昭名誉教授の説が紹介されていました。見るからに木村先生からだけ取材していて、ではなぜ学会が木村先生の説を認めないのか、取材した形跡はありませんでした。
これに限らず、一般向けの本は理系の論文と違って、これまでの経緯、それについて何が問題か、それに対してこの案はどう異なっているかという対比が乏しく、自ら正しいと信じる主張だけを強調する傾向にあるように思います。
もっともこれは書き手が理系がどうかに関わりません。「霞ヶ浦アサザを復活させれば水質が浄化する」と一般向けの本に書かれた元生態学会長・鷲谷いづみ氏の文章は、アサザを虫が食べる、それが窒素の系外への除去になるという単純な計算を載せただけでした。もともと生えているヒシを虫が食べる効果はどうなのか、そもそも光合成は空気中の二酸化炭素から有機物を作って水中で枯れるのだから、植物が増えることは水質の面から一概によいとは言えない、といった基本的なことは一切書いていません。
私は最近、上記アサザ植栽事業とともに、宍道湖におけるヨシ植栽事業についても、生態学者がどういう根拠でどういう媒体にどういう主張をされてきたかを調べています。どちらも共通して、科学的な根拠に基づいて主張するという、科学者としてすべきことを怠っていました。その正当化として「時宜にかなって社会に分かりやすく説明するため」があるのだとしたら、やがては生態学(者)に対する地元の不信となって返ってくることを自覚すべきでしょう。