去年の5月頃、いじめ自死遺族の会の方と、なぜ学校は隠蔽するかについてメールでやりとりをしたことがありました。
いじめを見抜けなかった、もしくは加担してしまった教員であっても、他の教員からすれば「仲間」である点が大きいかもしれないと送ったら、「記者さんから『どうして学校は隠蔽をするの?』とよく問われますが、最近は『自分の生活守っているんじゃないんですか?』と、素っ気ない回答になってしまいます。」と返されました。彼女も同じように考えているのかもしれないと思いました。
実際に子ども達の自死が起こっても、どこで間違ったからこういうことが起こったか明らかにするのは同僚への個人攻撃になるとして、何が起こったかさえ解明しようとしないのが、日本人のよくない点なのでしょう。良い悪い抜きに、まず何が起こったかを明らかにする姿勢がないと、同じ事が繰り返される可能性があるのは明らかです。なのに、いざ自分の身近にそういうことが起こると、理系文系に限らず合理的な対応ができなくなるようです。
私は彼女を始め、子どもを自死で失った親がどれほど苦しみ続けるか多少なりとも知る機会がありましたから、学生がメンタルに危なくなっていたら、それが教員の不利になっても学生側に立ち、何が原因か、どうすれば防げるのか解明することが大切だと考えてきました。そしてこういう考え方をするのは本当にマイナーなのだと悟りました。
日本人は同僚をかばうことを優先しますから、いじめ自死遺族の方々には大変おつらいことと思いますが、保育園から大学に至る教員に、お気持ちを伝えていくことが大切だと思います。