諫早、中海

食糧難対策として、戦後各地で汽水湖や内湾の埋め立てと周辺水域の淡水化が進みました。児島湾、八郎潟霞ヶ浦など。その後、減反対策が進み干拓の意義が薄れた頃に、大型公共工事を中止するかどうかで大問題になったのが、諫早と中海でした。
1990年代後半、私は海洋学会環境問題委員として、中海本庄工区干拓に関して海洋学会から出す提言のとりまとめに奔走していました。委員会では「諫早も環境問題として重要である」との認識がありましたが、二つの提言を同時進行でまとめるだけのマンパワーがありませんでした。
結局、中海本庄工区干拓は中止となり、宍道湖淡水化も含む国営中海干拓事業は、国の大型公共事業としては初めて完全中止となりました。一方、同じ農水省の工事である諫早は、防潮堤が締め切られました。その防潮堤、今では閉じたままでも開けて開門調査をしても、国は1日49万円、年間1億7千万円もの公金を支出することになるという、どうしようもない状況になっています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140607-00000082-san-soci
あの時、中海と諫早の決断を分けた大きな要因は何だったのでしょう。私は中海に集中していたので、当時の諫早の状況は分かりません。諫早の場合は長崎県と他県との立場が相反するのに対し、中海での鳥取と島根の差はそこまで大きくなかったことも影響しているのかもしれません。
社会学など文系の専門家に当時の分析をしていただければ、今後同様の問題が起こったときの参考になるのではないかと思います。