阪神大震災

両親は当時、大阪府寝屋川市に住んでいました。
未明に父親から「俺は無事や!」とだけ電話があり切れました。
何のことか分からずかけ直しましたが、つながりませんでした。
しかたなく職場(地質調査所)に出勤、阪神で何が起こったのかテレビで映像が流れたのはお昼近くだったと思います。通信手段がズタズタになっていました。
現地ではさらに交通もマヒしていました。各地で渋滞が発生、救護活動も遅れに遅れたようです。
当時は社会党の村山氏が首相で、自衛隊に反対する立場から救護要請が遅れたとの噂が飛び交いました。下記のように、渋滞で出動できず連絡も取れない状態だったというのが事実だろうと、父と電話連絡できなかった経験から思います。

両親は幸い無事でしたが、関西出身の地質調査所職員の中には、家屋が倒壊して親を亡くした方もいました。神戸の知人は無事ではありましたが、家の中がガラスの破片で歩くことができなかったと言ってました。それ以来私は自宅でスリッパは使わず、厚底のサンダルをスリッパ代わりにしています。
阪神大震災の教訓は、東京でいかされているのでしょうか。
少なくとも本郷周辺には、地震があったら崩れそうなビルが細い道に面して並んだままです。
大学に来ないかと言われたとき、柏キャンパスだったのでお受けしました。本郷だったら断っていました。今も夏学期に毎週本郷に講義に行くのが、いやでたまりません。水・アーミーナイフ・ライター・飴などは必需品、歩きやすい服装と靴が鉄則です。