人間がすることに思い込みは禁物

ロシアによるウクライナへの侵攻。とんでもないことですが、過去にも似た侵攻が行われ、侵攻された国への補償も謝罪もないまま今に至っています。
たとえばアメリカによるイラク攻撃。攻撃開始時のニュースでは軍事施設だけハイテク兵器で攻撃したと報道されてましたが、後日、民間人も多数犠牲になったと曝露されました。一国の大統領が殺され、攻撃の理由となった核兵器はありませんでした。
欧米によるイスラエル承認。パレスチナの故郷を追われた人々は、70年以上経った今も故郷に帰れず、爆撃下にあります。欧米のおそらく99%の人が彼等を救えと思っていません。ウクライナには共感しているのに。
広島・長崎への原爆投下による民間人大量殺傷。加害者は未だ謝罪せず、アメリカの民間人の多くが、原爆投下は正当な判断だったと思っています。
民主主義なんてミャンマーのように、あっという間に崩れます。日本も軍国主義に走る直前までは、いわゆる大正デモクラシー。
東大入学時には外交官になろうと文系だったのですが、文系講義を学ぶにつれ、社会を動かすものは合理的に説明できないと感じました。どうしても理詰めで考えてしまう私には合わない世界だと思って、次に大切なのは環境だと思って理転しました。
今の私にとって一番守りたいのは、こういった理不尽を重ねる人間ではなく、その人間によってカンブリア紀以降の地球史の中心だった節足動物なのかもしれません。節足動物を殺す薬剤をまき散らす人間という生物は、およそインテリジェンスのかけらもありません。
私は人間なのですけど、人間ほど非合理で厄介な生きものはないと思っています。
とはいえ人間も生きものである以上、生き続けようとするでしょう。

人間として生きのびるには、脳がささやく「○○だろう、○○に違いない」に対して、ホンマかな?ナンデヤネン?と疑うことが重要だと思います。