公文書書き換えが意味すること

財務省の公文書書き換え問題について、私と似た観点の解説をネットで見つけました。
http://honz.jp/articles/-/44676
「今回の一件は、内閣が責任をとって総辞職すればそれですむような話ではない。またリベラルや保守といった政治的スタンスの違いによって見解が分かれるような類の話でもない。なぜなら財務省が手を染めた行為は、私たちの社会の基盤を脅かす危険性を孕んでいるからだ。」
この記事によると、重要な文書を収蔵する施設の設置を規定する公文書館法ができたのは1987年で、これはOECD加盟国の中でもっとも遅かったそうです。
ただし日本は、古くは正倉院文書にはじまる現存する古文書の量は世界最大級なんだそうです。その流れが変わったのは明治時代で、行政組織が急拡大して文書管理が追いつかなくなってしまったことに加え、明治期の公務員は「天皇の官吏」で、国民に対する説明責任の意識などなく、それがそのまま、太平洋戦争終結時に軍部を中心に大量の公文書が焼却されることにもつながっていったとしています。
だとすると現状は戦前と全く変わっていない、ということでしょうか。
事実を書き残すってすごい事だなぁと初めて思ったのは、司馬遷の「史記」の現代語訳を読んだ中学生の頃だったと思います。権力者に逆らうとどんな非人道的な被害を被るかわからない状況が今も続いているあの国で、この文書は、時の権力を超える何かを意識していなければ書けなかっただろうと感じました。ネットの記事では、明治の公務員は天皇の管理で国民に対する説明責任は感じていなかったとありましたが、明治以前にも「国民」なんて意識はなかったはずです。事実を文書として残そうとする意識があったとしたら、それは人間を超えた何か、古来「天」と表されてきたものに対する態度ではないかと思います。
日本ではお茶を飲むとか、お花を飾るとか、そんな日常の営みも茶道とか華道とか「道」で表されて、その「道」においても「天」は意識されていました。天に恥じない行為をするということは、常に必ずできることではないとしても、意識され続けてきたのではないかと思います。
昨年頻発した大企業でのデータ改竄、有名大学での不正論文、身近なところでは私が東大で体験した組織的なハラスメントの隠蔽(2016年10月14日記事)に加え、今回のあってはならない公文書改竄などから、日本にはもはや「天に恥じない」ことを規範とする意識は無くなっているのではないかと思っています。それは即ち日本人らしさの重要な側面の崩壊で、それほど遠くない将来に、この、縄文時代から独自の文化を維持してきた集団が崩壊することにつながる可能性もあると考えています。さて、どうしたものか。