「場」を考える学問

2000年は私にとってちょうど40歳、人生80年の折り返し点に当たり、様々なことについて方向性を模索していました。
ここではその2000年に書いた文章のひとつを紹介します。私にとっての地球科学の意義を解説しています。出典は「用水と廃水」42巻、977頁です。

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 部分的には最適でも全体からすれば最適ではない事例は、いたるところに見られる。縦割り行政に指摘される弊害も、その一例であろう。大体において全体の不利益になっている事は、部分での最適を目指して、個々の部署なり企業なりが最善を尽くした結果である。悪意があったわけではない。全体最適化を当初から目指して計画しない限り、個々の最適を目指す努力が全体の最適にもなるのは「運が良ければ」であり、往々にして意図せぬ不利益をもたらす。悲劇である。
 用水や廃水が関わる環境問題は、関係する地域全体、多様な関係者全体で最適化すべき問題だ。しかし、その「全体の最適」を導き得る学問、基礎となる考え方を提供できる学問はあるのだろうか。最近は「〜環境専攻」などの名称が多くの大学で見られるようになったが、環境学という学問が一朝一夕で成立するはずもなく、例えば工学的視点からの環境、生物学的視点からの環境が説かれているのではないだろうか。
 手前味噌ではあるが、将来の環境学の基礎として、地学の考え方は最適ではないかと思う。環境問題は、物理・化学・生物などの学問分野による普遍的な記載法を用いて記述が可能な現象が、地理的・歴史的に固有な対象地域において複合して生じている問題である。地学はもともと、そのような「場」を考える学問、考え方の学問、という要素が強い。もちろん各種同位体を用いた年代測定など、地学固有の手法はある。しかしその基礎は物理学であり化学であり、地学固有のものではない。地学の醍醐味は、過去もしくは現実に存在する「場」をどう考えるかという点にある。そして、その「場」は地球深部から海洋も含む地圏・水圏だけではなく、当然のように生物圏や気圏も視野に入っている。例えば先カンブリア紀に特異的に形成された縞状鉄鉱層は、光合成植物による酸素分圧の増加が原因なのだ。
 残念ながら、地学はその環境学になりえる度量の広さが災いして、学問以外の分野では衰退しているように見える。狭い、特殊化した分野での競争、特定の産業への貢献といった功績には、そもそも馴染まないのである。また、考え方を教える難しさから、教育現場では暗記科目と化して不評であり、入学試験科目から外す大学が多いことから、高校で選択する者も少数派である。
 しかし、個々の学問からの解釈の集積が、全体解決としても最適である保証は無いことは、冒頭の「部分の最適化≠全体の最適化」と同様と考えて良いだろう。また環境問題が、グローバルであれローカルであれ、狭い国土に1億の人間がひしめく我が国にとって重要課題であることは、誰しも認める事だろう。だとすれば、個々の善意が全体の不利益をもたらす悲劇がここでも起きてしまわないように、全体の最適を目指した考え方の確立と普及を図っても良いのではなかろうか。
 そのきっかけとして、文系・理系を問わず、大学の教養課程で地学の考え方を取り入れた環境学を必修にする事を提案したい。その際、環境学が「場」の考え方の学問として発展する為の、地学サイドの努力が必要となろう。ただし地学関係者が平気で使う「最近1万年」という感覚だけは、浮世離れしていても頑固に残していて欲しいと思う。そういう感覚がどこかに無ければ、「国家百年の計」という言葉はこの国では死語になるのではないか、そう感じている。