ケースがそれほどあるわけではありませんが、陸水研では外国人学生の方が日本人の数倍、論文執筆能力があります。修士2年を半年だけ指導したB君は、それまでの結果を私がいる間に1本、卒業してからも1本国際誌に載せました。Dから指導しているH君も、1本が印刷になり、1本がもう少しで受理、今は食物連鎖と水質の観点から3本目の構想を練っています。それに比べて、日本人学生は、Dの学生でも1本目の国際誌は1年近く指導してようやく受理までこぎつけました。いったいこの差は何なんだと、学生はほとんど留学生というA先生に尋ねたら「彼らは書かないと就職できないから、真剣さが違う」って、それは日本人学生も、Dまでくるなら同じハズなのですが。。。
見ていると、日本人学生は論文を書こうとすると、手が止まっていることが多いです。手を止めて、じっと考えて何かがでてくるというのは、実はそれほどいないのではと私は思います。
学生のときに「あなたは書くのが遅い」と指導教員のK先生に言われて、「でも実験していたら書く時間ありません」と答えたら「バカだねあなた、論文なんて実験しながら頭の中で書くものだよ」と言われました。そのK先生は確かに、読んでいるか、書いている(入力している)かのどちらかで、じっと考えている様子をみた記憶はありません。どちらもできなくなると、実験室やお茶飲み場に来て、「〜はどうなったの?」と学生の状況を尋ねて議論を始めたり、その時の懸案についてアイディアを求めたりと、議論することで考えをまとめておられるようでした。MIT教授だったホストファザーも、ノートに書き込みながら考えていました。私自身も、指が考えている気がします(そもそも腕を組んでじっと考えるなんてヒマ、学生の時に主婦も始めたので、一瞬たりともありません)。
人の脳は雑念が次々現れるものであることは、たとえばヨガなどの瞑想指導にも書かれています。腕を組んで数十分沈思黙考して考えをまとめられるのは、よほど鍛えられた脳だけではないでしょうか。だから書くことを通じて、読むことを通じて、議論することを通じて考えをまとめていく。その考えを文章にする。