まぼろしの子供像

ある会報が青木悦著「孤独な、なかよし」から、親が描く理想的な子供を引用していました。

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朝はひとりでさわやかに飛び起きて、前の晩自分で用意した清潔な衣服を順番を間違えずにすみやかに身につけ、朝から好き嫌いなくモリモリ食べて、忘れ物の一切ないカバンを持って元気に飛び出し(学校に行く時間が来たらトイレにこもったり、イヤだと言って玄関にうずくまったりすることなく)、近所の人に出会ったらむこうからあいさつされる前に「おはようございます」とさわやかにあいさつをして、学校に行ったら体調が良かろうと悪かろうと常に積極的にハキハキと、全教科まんべんなく関心を持ち(本当は全教科できてほしいけど、できないことはよく分かっているから、せめて関心を持ってほしい、となる)、友達にもやさしく、校庭の隅っこに咲いている小さな花に感動する心を持ち、夜はテレビを見ないで早く寝る

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その会報の著者は、親は、子供は一人一人違っていい、個性が大切と思いつつも、この理想の子供像と目の前の子供を比べて、違っている部分や至らない部分を指摘し改めさせようとする傾向があると指摘していました。私も小6の娘に対してこれ全てができて当たり前とは考えていませんが、起床から家を出るところまではこれくらいできて当たり前だろうと思っていて、できない部分は毎日のように注意していました。

小6ならできて当たり前というところがそもそも、子供によって早くできることと遅れてしまうことがあるのかもしれない。朝はどうしても貧血などで食べる気になれないのかもしれない(私自身そうで、子供はそうではないだろうというのは思いこみかもしれない)など、「〜くらいは当たり前」からして本当にそうなのか疑って見る必要があると思いました。

そして会報の著者は「比べられる子供達は、おとなの矛盾に気づくはずです」とした上で、教育現場での様々な指導について「多くの教員は本質的にそうなのかという議論はさておき、何となくそう考え、さしたる疑問も持たずに、いつもながらの指導を行っているでしょう」と指摘していました。

大学院大学である私のキャンパスは、社会に出て行く直前の学生さん達が学ぶ場ですから、社会が動けばその影響が小学校より早く顕著に、学生さん達の状況に反映されると思います。こちらがそれを察せずに、実情に合わない理想や規範にとらわれることのないように、我が子の教育同様「本質はどうなのか」を問い続けなければならない、と思いました。