石油に支えられた車に便利な道が、古い町にシャッター通りを増やしながら作られて来た

土木学会誌6月号に、東日本大震災特別寄稿「文明を支える 我々が今なすべきこと」が掲載されていました。
著者は昭和32年建設省に入り、配属になった遠賀川工事事務所では河川も道路も席を並べていて、河川担当者が道路の担当者に「この路線は堤防が破れたときに2線堤として働いて欲しいから、今少し高くしてくれ」と注文をつけていたそうです。
昭和50年代、東海地震に備えるために建設省河川局と水産庁が合同で津波対策指針を作ることになり、著者は幹事を務めました。著者は「大きなものにもある程度は抵抗するが、計画対象津波を構造物で完全に守りきることは出来ない。しかし、人命だけは守りぬかねばならない。津波予報を充実し、それに従って素早く避難する。それが防災体制の主な内容である」としました。これに対して、河川局も水産庁も構造物を作る官庁であるから、ソフト対策を取り入れても意味がないという反対が出たそうです。また計画外力が対策構造物の能力を上回るのは受け入れがたい、という反対もありました。しかし著者は何とか押し切ったそうです。
しかし、上記指針の趣旨である「大津波は滅多に来ない。その問に沿岸地帯は変貌する。開発するときにちょっと立ち止まり、これで津波に強くなるか、弱くなるかと考えてもらう。」は浸透しなかったそうです。津波対策担当者以外が指針を参照することが無かったからでした。こうして下水道普及に伴って、土地がないとの理由で終末処理場が防潮堤の海側に造られる事態にまで至ってしまったのでした。
これからについて、実務に関わって来られた著者が例をあげて提案されているので、そのままペーストします。
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直接的ではなくとも補強しようとする思想、道路を万一の時の2線堤として使おうとの考えも費用便益を優先する立場からは否定された。数十年に一度の洪水を防ぐ効果と新道路の周辺が経済的に発展する効果とを比較すると、全く問題にもならないと云う。こうして、石油に支えられた車に便利な道が、古い町にシャッター通りを増やしながら作られて来た。人間が生きていなければ、生活の快適さをいくら目指しても意味がないはずだが、便益のなかに人間の生命が算定されていない矛盾を抱え込みながら、物事は進行していった。
今回の津波で、仙台東部道路津波侵入に抵抗し、その上に駆け上った人を含めて多くの人命を救った。非常のときに、非常な効果を発揮した。これを当初から期待し評価する手法と合意は出来ないのか。