この論文は阪口先生に

11月1日にScience誌に掲載された論文には、1982年と2016年で底生動物の生息密度が比較されています。
1982年のデータは私の卒論でした。その頃、宍道湖を淡水にする公共事業が進んでいて、水産試験場の方が淡水化以前の底生動物の分布を残しておきたいと、248カ所で採泥してました。しかし大部分を占める多毛類の同定ができないということで、宍道湖に関わっていた西村肇東大教授を通じて、私の卒論としてやらないかとのお話が来ました。
その頃の私は東大理学部地理の学部生で、卒論には指導教員だった阪口豊先生のご専門である花粉分析をやろうと、研究計画を作って相談に行きました。先生曰く、「あぁ、いいよ。好きにしなさい。ただし僕は一切指導しないからね。」
そんなぁ。。途方に暮れていたところだったので、多毛類の同定なら何とかなるだろうと(教養の学生の頃、国立科学博物館の今島先生に教えてもらっていたので)、宍道湖における多毛類と環境因子との関係を研究することにしました。
同定を始めて、これは大変なことになったと思いました。多毛類は喉をさいて吻の突起を顕微鏡で見たり、特定の節の毛を採って高倍率で拡大してどの形のが何本あるか数えたりと、非常に細かい作業をしないと同定できないのですが、1地点で出てくる多毛類は、当然ながら1個体ではなかったからです。しかも大人から子供までいて、まだ形質がしっかりしていない(ということもそれまでは知られていなかった)とか、既報では○○とされていたイトゴカイが全く別物の可能性があり、タイプ標本を海外から取り寄せて新種であることを確かめたりとか、予想もしていなかった事が次々に起こり、学部4年の4月から8月は、3時間以上まとまって寝た日はなかった気がします。
当然ながら院試の準備なんてできるハズもなく、「山室は地形学、全く勉強してないらしい。」との噂が先生方にも伝わったのか、試験問題は教科書の一番初めの図から出題されていました。それでも何も書けなかったので、これは落ちたなぁとトボトボ歩いていたら、阪口先生とすれ違いました。
「やぁ、院試はどうだった?」「はい、全然、書けませんでした。」「そうか。で、卒論はどうなんだ?」「順調に進んでます。誰もやったことのない、すごい仕事になると思います。」
そりゃそうです。こんな体力だけの仕事、他に誰がやるもんですか。
阪口先生は「そうか、そうか。」と笑ってました。
そして毎年1名くらいは内部進学者でも不合格になる自然地理の院試は、この年だけ異例の全員合格でした。これは山室を合格させるために違いないと、せっかく合格した同期の一人は、「俺、他の年に受験していたら落ちていたと思うから。」と進学を辞退しました。
合格発表後に阪口先生にご挨拶に行ったら、「受かるとは思ってなかっただろう?」「はい、ありがとうございます。」「でも、ドクターまで進むなら、今以上にがんばりなさい。そうじゃないと僕の退官に間に合わないからね。」「はい、約束します!」
との約束もしっかり破って、学位論文を仕上げるのに5年もかかり、指導教員は阪口先生が助手だった頃に学生だった小池勲夫先生に引き継いでいただきました。
阪口先生は、「地理は考え方の学問だ。だから手法などは積極的に他流試合をしてきなさい。」と言われてました。私が水環境について様々なテーマで研究しているのは、阪口先生の指導の影響です。
そもそも文科三類の学生だったとき、進学担当だった阪口先生に直接売り込みに行って、その年だけ定員を1名増やして採って下さったことで、理学の研究ができる環境が開けました。私は多くの先生方に大変お世話になりましたが、今に至る道の最初のドアを開けて下さり、その後も、おそらく地理始まって以来態度が悪い学生だった私を見捨てずにチャンスを与え続けて下さったのが、阪口先生でした。花粉分析の指導をしないと言われたのも、私の性格(既成のものを素直に受け入れるのが苦手)を見抜いていたからかもしれないと、今は思います。
阪口先生は、私が地理に来るまでは学生から「活火山」と言われてました。火山噴火のように、突然怒ることがあったからです。ところが私ときたら問題行動の塊みたいな学生で、たとえば講義にはたびたび大幅に遅刻しましたが、堂々と最前列に座ってしゃぁしゃぁとしていたので、「君は宮本武蔵か」と言われました。自分勝手に地理以外の先生方などに教えを求めに行ったりもして、「事後でいいから、必ず報告するように。」と言われました。そのうちに、私の行動にイチイチ怒っていたら身が持たないと思われたのか、先生は噴火しなくなりました。先輩方からは「山室が阪口先生を死火山にした。」とか言われました。
自分が大学教員になってみると当時の私より態度が悪い学生は皆無で、これは阪口先生には相当失礼だったと思うようになりました。そんな先生にお詫びに行くには、先生のおかげで地理らしい、よい研究成果を出せましたと持参するのが一番だろうと、3月にScienceに投稿した論文が印刷になったら、先生のお宅を訪ねようと思っていました。あのときの卒論のデータがしっかりいかされているこの論文が、お持ちするには最適と思ったからです。

しかし阪口先生は、7月に逝去されてしまいました。先生は陸水学者でもあったので、陸水学会の先生方とも親交がありました。40歳のときに生態学琵琶湖賞を受賞した際、当時の陸水学会長だった新井先生が、「阪口さんが会う度に、『ウチにはとんでもない学生がいる。』と言っていたその学生さんがこの賞を受賞するなんて、本当に感慨深い。」との祝辞を述べられました。

阪口先生にとって私は永遠に、とんでもない学生で終わってしまいました。もう少し早く受理されていたらと、本当に残念です。