東大地理らしさを残す研究室

今日で修論発表会が終わり、引き続き大学院入試でした(明日まで)。

私が修論を書いた頃は、理学部2号館にあった地理学教室の院生室1号部屋に席があって、同室の先輩方がわけのわからない単語ばかり出てくる原稿をビッシリ添削してくださいました(1号部屋の先輩方は地形が専門でしたが、私の修論は釣り餌にするゴカイなどの仲間が汽水湖の塩分とどう対応しているか)。

また地理の修論は自筆原稿だったのが(代筆防止策)、卒論での私の悪筆ぶりに「山室の手書きを修論の分量読むのは不可能」と判断したのか、私の修論提出の年からワープロ可になりました。

そもそも修士入試の時も、「山室でも解ける地形の問題」ということで新編日本地形学の最初の方から出題されたのに手も足も出ず、英語も会話はできても書くのは苦手で、面接で兼担の先生から「君は帰国子女なのに、何でこんなに英語ができないんだ!」と叱られる始末。これは落ちたと思っていたら受験者全員が合格、山室を通すにはこれしかなかったとささやかれました。実際、指導教員の阪口先生からも「まさか受かるとは思ってなかっただろう?」と言われました。

その阪口先生は、修士から博士に進むときにも東大海洋研や東北大、京大の生態学関係の知り合いに進学させてもらえないか交渉していたそうですが、「全員から『地理屋はいらない』と断られたよ。」と後になって言われました。私が日本の重鎮生態学者と合わないのは、当時から地理的な考え方を軽視する風潮があったからかもしれません。結局、阪口先生の指導で修論を書き、後に東大海洋研の教授になった小池先生に指導教員を引き継いでもらって学位論文を書きました。その学位論文も地理の気候学の先生から審査を断られ、お世話になっていた理学部植物学科と工学部化学工学科の先生方に副査になっていただきました。

試験の成績とか卒論・修論の内容がわかりやすいか、そもそも教育範囲なのかなどを度外視して、やりたいテーマで博士号取得まで研究させてくれた地理学教室の先生方の度量の大きさは本当にありがたく、期待にこたえなきゃという気持ちからも世界に通じる研究を志して来ました。

そんな私が教授を務めているのは地理学教室の一部が移動してきた新領域創成科学研究科自然環境学専攻ですが、あの頃の地理のような環境はあり得ない感じです。もしかしたら当時の東大でも、地理だけが特殊だったのかもしれません。吉村信吉先生は日本陸水学会の創設に尽力された地理学教室の大先輩ですが、当時、陸水学の教室はどこにもなく、吉村先生も地理で自分がやりたい陸水学をテーマに自分で研究されていました。東大地理学教室は東京帝国大学の時代から、そんな教室でした。私の陸水学研究室が、そんな東大地理らしい地理を多少とも残す最後の研究室かもしれません。あと3年。