高松城のお堀にあったかもしれないアマモ場のお話、知り合いからの続報をいただきました。「高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれているが、その由来は、万葉集で柿本人麻呂が、讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると言われている。」
出典
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/3165.html
(往事の高松城の絵図あり)
そして万葉集の頃は海草・海藻は身近な存在だったらしく、万葉集には80首以上、「モ」をよんだ歌があるそうです。
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/mo.html
上記リンクには「古くは藻葉などと言われたそうです。」とありますが、拙著「里湖モク採り物語」の聞き取りにもあるように、「モバ」という言葉は1950年代くらいまでは普通に使われていたようです。
1950年代半ば、除草剤使用によってモバが消え、モク採りが終わり、水草と私たちとの関わりが多くの地域で断絶しました。
しかし、宍道湖で沈水植物が復活した理由は水産業が盛んな湖沼では共通しているはずなので、今後、全国の平野部湖沼で沈水植物が復活する可能性があります。復活したモバと、私たちはどのような関係を築いていくのか、かつてモク採りをした経験のある方がご存命の間に、方向が見えるといいなと思います。