「減農薬のための田の虫図鑑 害虫、益虫、ただの虫」

意外なことに、DDTBHC、水銀剤などが使用禁止になった1970年代以降にむしろ農薬の散布は「低毒性」だからといって、かえって増え続けていったのです。しかも無駄な散布が横行していました。ではなぜ、好きで散布する百姓はいない「農薬」を、どうして必要以上に使用するようになったのでしょうか。
百姓が自分で、自分の田を見て、農薬を使うべきかどうかを自分で判断してこなかったからでした。それは百姓が悪いのではなく、戦後一貫して、この国の農政が「生産性向上」一辺倒の政策をとり、百姓だけでなくいわゆる「指導者」も含めて、みんながそのしくみにどっぷりと漬かってしまっていたからです。
その結果、田の中の虫たちも減っていき、百姓の目も痩せていきました。赤トンボが水田でうまれていることを知らない百姓もいます。
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上記は「田の虫図鑑」の「はじめに」の文章です。厚生労働省の発表では、平成23年度に農薬散布中に中毒を起こした方は18名でした。
農薬が使われるまでの田んぼや水路は、魚やトンボ、水草など、多くの生物が住まう場所でした。この本ではそんな田んぼに住まう虫について、作物を食べる「害虫」、害虫を食べる「益虫」、どちらでもない「ただの虫」に分けて、豊富なカラー写真で解説しています。全部読み通すと、害虫、益虫、ただの虫の全てについて、バランスを保っていれば害虫だけが異常に増えることはないはずだと思えてくるでしょう。

虫だけではありません。絶滅危惧種になっている水草の主な減少要因が護岸工事でも富栄養化でもなく除草剤であることは、毒性分野では教科書的な本にも書かれています。また湖沼や河川の護岸やコンクリート3面張りが自然破壊であれば、同じ事が農業用水路でも起こっていることは当然でしょう。霞ヶ浦でもアサザは波が高い湖内ではなく、流入する小河川や水路で繁茂していました(今でも霞ヶ浦そばの水路では自然に咲いています)。

あたかも赤トンボがかつては水田でうまれていたことを知らないごとく、波が高い霞ヶ浦アサザが繁茂していたとか、それが減ったのは護岸工事が原因だと妄信する生態学者やNPOのためにも(しかもその妄信を子供達に教育している。。)、どなたか「田の草図鑑」を作っていただけないかと思います。

農薬が使われる以前の水田の様子については3月19日付記事を参考にされてください。

減農薬のための田の虫図鑑―害虫・益虫・ただの虫

減農薬のための田の虫図鑑―害虫・益虫・ただの虫

(追伸)
私が自信を持って「農薬がまかれる前の田んぼや水路は生き物の宝庫だった」と言えるのは、小学校の頃どろんこになって田んぼや水路でライギョやドジョウを追っかけて遊んでいたからです。その魚たちがある日突然、農薬をまかれて腹を上にして死んで、通学路から見える全ての田んぼが延々、死んだ魚の腹で真っ白になっていました。その日から私は米を食べれなくなりました。
また私の時代の大阪人は、琵琶湖という大きく波が高い湖で「海水浴」を楽しんでいました。河口にはあるヨシ原が波打ち際にはないように、琵琶湖の波打ち際には抽水状態のヨシなどないことは、当たり前のことでした。アサザが波の高い霞ヶ浦にあったとか、ヨシが波の高い宍道湖の波打ち際にあったと信じている保全生態学者との見解の差は、1970年代以前の水域を現場で見ていたかどうかによるのかもしれません。
そして20代以降、小寺とき様という、農薬がいかに日本の自然を、そして子供達の健康に悪影響を与えるかにいち早く気づいた方から実践を通じて教えていただいたことも、水環境に及ぼした農薬の影響を配慮するきっかけになりました。
小寺とき様については私自身が語った下記をご覧ください。
http://webpark1489.sakura.ne.jp/docs/profile/video_images/video_07.html