西條先生の奥様は画家ですが、先生ご自身も絵を描かれていて、お茶の水の画廊で定期的に二人展を催されていました。「退院の日」を拝見したのは、先生が亡くなってからの二人展。青空に昇り立つ入道雲をバックに、強い日差しをいっぱいに受け風にそよぐ樹々の緑。見ているとうきうきしてくるような絵で、奥様に絵葉書があったらいただけませんかと尋ねたところ、あいにく作っていないとのことでした。
そして西條先生から託された「貧酸素水塊」が出版されて10日後の昨日、「退院の日」が届きました。私がとても気に入っていたからとのことでした。ようやく出版までこぎつけたことはご家族にはお伝えしていなかったので、何だか不思議な気がしました。まるで西條先生からの贈り物のようで。
2004年7月16日と記されたこの絵は、まだしばらく退院できないと思っていた矢先に「今日、退院していいですよ。」と言われたその日に描かれたそうです。荷物が多いのでバスの停留所で2つ先のご自宅に奥様が一度帰って車で戻るそのわずかの間に、一気に描かれてしまっていたとのこと。外に出れる!いろんなことができる!との希望とか喜びしか、先生は感じていなかったのでしょう。絵のお礼に電話をしたら、娘さんがこう言われました。「本当に、いつもオプティミストだったから。」
西條先生は決して頑強だったわけではなく、私が記憶しているだけでも3回は入院されていたと思います。それでも「アラル海が干上がる、今行かなきゃ。」とご高齢を押して出かけたり、亡くなる直前まで六条干潟埋立に関する委員会に出たりなど、娘さん曰く「体を150%使っていたと思う」との生き方をされていました。交通事故のおかげで10年以上かかった「貧酸素水塊」の出版を断念しないで済んだのは、そんな西條先生の生き方に励まされてきたからでした。
交通事故による高次機能障害で10年以上まともに論文が書けなくなったように、これからも何が起こるか分かりませんけれど、この絵を見ていると西條先生がおられた頃のように安心していられる気がします。
不思議なことがもうひとつありました。私が先生と仰いでいるもうひとりの方が小寺とき様(4月27日記事の追伸参照)なのですが、西條先生の娘さんも小寺様の無農薬農業に関心があって自宅にうかがったり、生産された当初から「みんなの牛乳」を飲み続けているそうです。小寺様の最後の著書となった「本物の牛乳は日本人に合う」の扉に私の文章を見つけて驚かれたとか。私の方こそビックリでした。