教授も学生も対等

1月31日付記事でご紹介した、修士からアメリカで水環境の研究をされている若手の方のお一人から、個人的にメールをいただきました。私が書いた記事の訂正として、修士の時に給料が半額だったのは約半年、額は500ドルで生活には足りなかったが、莫大な授業料は修士生活の最初から最後まで免除されていたとのことです。
コメントとして「外国で学位研究をするとバイトも日本的な就職活動も不要だが、語学の壁を乗り越えることと、文化の壁を乗り越えることに恐ろしいほどの時間と体力を消費する。しかも、英語で勉強すると本当に頭に残らないので、効率という面ではあまり差が無いかもしれない。」とありました。
この方もブログを書かれているというのでアクセスしてみました。
そこでの記事を私なりに理解したところでは、北米で修士・博士に進むと、経済的に苦労することなく好きな研究に没頭できるし、世界標準語としての英語は問題なく使えるようになる。しかし日本に帰ろうと思うと、たとえば目上の人との距離の取り方など、日本固有の文化に悩むことになる、というところでしょうか。
この感覚、すごくわかります。私が北米にいたのは17歳の1年間だけでしたが、若かったこと、あちらの家庭にホームステイして日本的なものほぼゼロだったこともあって、精神的にはかなりアメリカナイズされている部分があります。そのひとつが、この学生さんがブログで書かれていた
「北米生活が長い自分は、教授であろうが、技官であろうが、同い年の学生であろうが、自分よりはるか年下のインターンの学部生であろうが、相手が誰であろうと自分とまったく対等のものとして接することに慣れきっている」
私もど〜してもこうなってしまうのですが、確かに日本の大学ではこれは一般的ではないらしいと、私自身困っているところでもあります。