宍道湖への遺言

春の甲子園が中止になりました。
21世紀枠で決まっていた平田高校は、宍道湖に近い所にあります。「よかったねぇ。」と思っていたので残念でなりませんが、それ以上に残念なことがこの決定前にあって、複雑な気持ちでした。
宍道湖は、もしかしたら英語で紹介された初めての日本の湖だったかもしれません。ラフカディオ・ハーン=小泉八雲が「神々の国の首都」で宍道湖を紹介していたのです。
戦後すぐに計画された宍道湖淡水化のアセスメントでは、京大教授だった宮地伝三郎先生を団長とする、錚々気鋭の若手達(あの西條八束先生がその当時は若手!)が参加した徹底的な調査が行われ、当時の宍道湖を知る貴重な資料となっています。この頃の参加者は多かれ少なかれ、宍道湖をすごく大切に思っていました。
その淡水化を延期にする根拠となった議論には、全国から集まった宮地報告書当時の若手もいて(その時は西條八束先生は大御所になっていた)、宍道湖のためにあらゆることをして検討していました。私は宍道湖淡水化延期問題当時20歳、検討に関わっていた西村肇東大教授から「宍道湖の実態を調査せよ!」との密命を帯びて(笑)、松江に行ったのでした。
そんな私をサポートしてくれたのが、当時の県の水産試験場であり、衛生公害研究所でした。貧乏学生だった私がホテルなどには泊まれず研究所でゴロ寝するのを見て見ぬふりをしてくれたり、差し入れしてくれたり、何より実験・観測を全面的にサポートしてくれました。

(以下、3月21日修正)

なのに今の島根県環境課の一部の方々は、近年の宍道湖の水草繁茂や一部の魚類減少の問題への対応がずれている上、県外の研究者の不信を招く言動をします。島根県の宍道湖関係の部署は縦割りで、問題が起きた時に職員は先ず己の部署を守る傾向があるように思います。そして問題は放置されがちです。その様子が部外者だからこそよく見えるのに、それを指摘すると不信を招く言動をすることで、宍道湖につながる松江や平田や斐川町とか出雲とかにシンパシーを持つ人を減らしてしまうことが、おそらく分からないのでしょう。
何かが崩壊するときのきっかけというものは最初は取るに足りないと思われていたことの放置だったということを思い致すべきです。琵琶湖南湖が水草でおおわれ漁業が壊滅してしまうのに、10年もかかりませんでした。それを防ぐためには、日本のより多くの人が、宍道湖は大切と思わなければならないのに。

(追伸)

上でも示した様に、県内者からの指摘によりタイトルを含め、3月21日に大幅に修正いたしました。島根県関係者からこのような修正を要求される状況であることから宍道湖研究をこれ以上行うことは困難と考え、既にあるデータの公表に留める予定です。長らくご支援いただいて来た関係者の方々には、心よりお礼申し上げます。